森鴎外と舞姫

  1. 六草いちか:鴎外「舞姫」徹底解説, 大修館書店, 2022
  2. 中島国彦:森鴎外―学芸の散歩者, 岩波新書, 2022
  3. 六草いちか:それからのエリス いま明らかになる鴎外「舞姫」の面影, 講談社,  2013
  4. 山崎光夫:明治二十年六月三日−鴎外「ベルリン写真」の謎を解く, 講談社, 2012
  5. 六草いちか:鴎外の恋 舞姫エリスの真実, 講談社, 2011(河出文庫, 2020)
  6. 井上靖:現代語訳 舞姫, ちくま文庫, 2006
  7. 小堀杏奴:晩年の父, 岩波文庫, 1981
  8. 森於菟:父親としての森鴎外, 筑摩書房(筑摩叢書159), 1969
  9. 森鴎外:うた日記, 岩波文庫, 1940

六草いちかの著作[六草2011, 2013]を興味深く読んだ。著者はベルリン在住かつドイツ語話者の特典を活かして、実質的かつ詳細な調査を行い、鴎外のベルリンの恋人Elise Marie Caroline Wiegert (1866-1953) を特定している。100年以上前のベルリン市の公文書、教会の古文書を詳細に探求した結果である。特に六草2013では、Eliseの存命の親族をも確認している。原作「舞姫」は文語体で分かりにくく、井上靖の現代語訳[井上2006]で読んだ。この物語の筋自体は小説ではあるが、凄惨な雰囲気のうっとうしい話ではある。彼女を追い返してしまったという彼の大いなる後悔が、このような話を作らせたのだろう。実母や妹や妹の夫らの強烈なブロックに抵抗できなかった鴎外。周囲をはねのける強い決断力があってほしかった、Eliseが東京までやってきているのに追い返すなんて、と現代の私は思う。鴎外が好きな人と結婚してベルリンで医者をやっていてほしかった[注1]。1888年の森林太郎とElise Wiegert、その時二人は26歳と22歳である。六草2011, 2013は、Eliseの帰国後も鴎外との連絡は取れていたことを実証している。二人が結ばれていれば、たぶん文豪森鴎外は存在しなかったかもしれないし、彼があのような遺言[Website 1]を書くこともなかったような気がする。彼らの出会いからすでに135年が経っている。「うた日記」の初版は1907年、鴎外45歳。下に引用する詩「扣鈕」は出会いから20年後のものである。思い出いまだ忘れ難し。生涯忘れずというのは、小堀1981の言うとおりだったのだと思う。

[小堀杏奴1981, p.195](鴎外は1902年志げと再婚、1909年5月、次女杏奴誕生。)
 亡父が、独逸留学生時代の恋人を、生涯、どうしても忘れ去ることの出来ないほど、深く、愛していたという事実に心付いたのは、私が二十歳を過ぎた頃であった。そう考えるようになった原因の一つは、死期の迫った一日、父が、母に命じて、独逸時代の恋人の写真や、手紙類を持って来させ、眼前で焼却させたと、母が語っていたからである。

[六草2013, p.110]
 エリーゼがベルリンへと帰っていき、鴎外は後を追わない人生を選んでしまったが、生涯にわたって鴎外が彼女を忘れることはなかった。鴎外の作品のあちこちにその片鱗を感じ取ることができる。出征した日露戦争でのできごとを綴った「扣鈕(ぼたん)」という詩もそのひとつだ。

[森鴎外1940, pp.40-41]「扣鈕(ぼたん)」
南山の たたかひの日に 袖口の こがねのぼたん ひとつおとしつ その扣鈕惜し
べるりんの 都大路の ぱつさあじゆ 電灯あをき 店にて買ひぬ はたとせまへに
えぽれつと かがやきし友 こがね髪 ゆらぎし少女 はや老いにけん 死にもやしけん
はたとせの 身のうきしづみ よろこびも かなしびも知る 袖のぼたんよ かたはとなりぬ
ますらをの 玉と砕けし ももちたり それも惜しけど こも惜し扣鈕 身に添ふ扣鈕

[森於菟1969, p.84](森於菟は、鴎外の長男。1890年長男於菟誕生、まもなく妻の登志子と離婚。)
 (上掲の詩「扣鈕」に言及しつつ)この「黄金髪ゆらぎし少女」が「舞姫」のエリスで父にとっては永遠の恋人ではなかったかと思う。エリスは太田豊太郎との間に子を儲け仲を裂かれて気が狂ったのであるが、父にもその青年士官としての独逸留学時代にある期間親しくした婦人があった。私が幼時祖母からきいた所によるとその婦人が父の帰朝後間もなく後を慕って横浜まで来た。これはその当時貧しい一家を興すすべての望みを父にかけていた祖父母、そして折角役について昇進の階を上り初めようとする父に対しての上司の御覚えばかりを気にしていた老人等には非常な事件であった。親孝行な父を総掛かりで説き伏せて父を女に遇わせず代わりに父の弟篤次郎と親戚の某博士とを横浜港外の船にやり、旅費を与えて故国に帰らせた。
 一生を通じて女性に対して恬淡に見えた父が胸中忘れかねていたのはこの人ではなかったか。私ははからず父から聞いた二、三の片言隻語から推察することが出来る。

以上、次女(小堀杏奴)、六草いちか、鴎外自身、長男(森於菟)、からの文章引用を続けたが、ここに見るように鴎外にとってエリーゼとの若き日の恋を達成できなかったことは一生の後悔なのだと思う。この心境は長く持続し、彼の遺書や臨終間際の「馬鹿らしい」 発言につながると思う([山崎2012, p.315]、[Website 2])。

明治時代だから外国人女性との結婚が回避されるべき、などということはなかった。例えば[Website 3]を参照 。同記事によれば「この時代において留学生の国際結婚はそれほど珍しい事ではなく、また、ドイツ女性との結婚の数が一番多い」。また山崎2012は、第17章(pp.253-263)において「日本の薬学の父」として、長井長義 (1845-1929) を紹介している。長井はドイツ・アンダーナッハの石材・木材を扱う旧家の出身Therese Schumacher (1862-1924) と結婚している。鴎外の独逸日記によれば、1985年にベルリンで長井とテレーゼに逢っている([山崎2012, pp,260-261]、[Website 4]、[注2])。

長井の結婚は、ベルリン大学の恩師の勧めや日本の上司の了解など万事滞りなく結婚に至っている。これに対して、鴎外が帰国し、エリーゼが来日する。そこで母親を中心とした親族全員が、鴎外の試みを拒否するのはきわめて異様に見える。上に引用の森於菟がその詳細を語っている。100年以上前の「身分」や「出自」にこだわる社会環境、「旧家の出身」のテレーゼと「身分の低い一般家庭」のエリーゼの格の違いにも原因がありそうであるが、森於菟1969が言うように所詮は当時の森家の都合であろうか。

このような状況の中で、強行突破できなかった鴎外自身の優柔不断が問題である。鴎外のベルリン滞在は1年ほどなので、彼女と知り合ってすぐに恋に落ちたのであろうと思う。13年にわたる独身時代の彼女とのやり取り、思い出の品々を最後まで残しているなど、彼の思いは深く、生涯彼の心を揺さぶり続けたのだろうと思う。六草2013ではドイツ帰国後のエリーゼの足跡を実証的にたどり、この悲恋がこの二人にとって生涯の一大事だったことを述べている(特に下記の箇所)。ページの後の文言は六草2013における節の名称である。

pp. 337-340          エリーゼの伝言
pp. 238-239          あらためてふたりの結婚した年を確認してみる
pp. 257-258          文通は独身のあいだだけ
pp. 287-289          文通は終わっても

二人はお互いの消息を知らずに生涯を閉じたのだろうか。六草2013はこの問いには明示的には答えていない。ただエリーゼは、1919年の夫の死亡広告を鴎外が分かるような形でベルリンの新聞に載せているという([六草2013, p.338-340]、[注3])。冒頭に揚げた文献[1-9]を読み通してみると、環境に翻弄されながらの男女の愛の複雑な形が浮き上がってくる。

[Websites] 
(1) 森鴎外の遺言
(2) 文豪の死に様「森鴎外ー死の床で〈馬鹿らしい〉と叫んだ人
(3) 森鷗外「舞姫」明治時代の国際結婚について
(4) 鴎外への鎮魂歌7(結婚
[注1]
エリーゼを帰国させた後に自分もドイツへ移住するつもりだったようだ(六草2022, pp.289-290)。彼女の帰国3日前に鴎外から親友賀古に宛てた書状(1888/10/14付)にその旨が書かれている。
[注2]
鴎外への鎮魂歌7(結婚)」では、長井の結婚について詳述している。鴎外のこの件への思いも語られている。近代文学においては夏目漱石とともに森鴎外は誰もが知る文豪であるが、本記事では鴎外について、結婚の不調や苦労、研究の不調そして社会的地位の挫折感など、長い間の屈折感からの逃げ道として彼の文学が生まれている可能性を暗示している。
[注3]
鴎外に「椋鳥通信」という当時の世界のニュースを書き連ねた著作がある。これに載せている記事のネタ元がBerliner Tageblattという新聞。エリーゼは、夫Maxの死亡広告をこの新聞に限って自分の住所入りで出している(1919/1/1付)。鴎外がこの新聞のみを購読していることを彼女が知っていたのではないか、これは当時のベルリン発行の主な新聞を調べた六草2013の推測である。この時すでに二人の出会いから30年以上が経っている。(森鴎外:椋鳥通信[上中下], 岩波文庫, 2014.)

2023/01, 2025/03

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