宮脇俊三「時刻表昭和史(完全版)」中公文庫、2023(宮脇2015の改訂版、内容はほぼ同じ)
小牟田哲彦「宮脇俊三の紀行文学を読む」中央公論新社、2021
宮脇俊三「増補版 時刻表昭和史」 角川ソフィア文庫、2015
1945年8月15日正午「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び…」昭和天皇の終戦の言葉がラジオから流れた。宮脇2023にはこの瞬間の次のような描写がある。
放送が終わっても、人びとは黙ったまま棒のように立っていた。ラジオの前を離れてよいかどうか迷っているようでもあった。目まいがするような真夏の蝉しぐれの正午であった。時は止まっていたが、汽車は走っていた。まもなく女子の改札係が坂町行が来ると告げた。父と私は今泉駅のホームに立って、米沢発坂町行の米沢線の列車が入って来るのを待った。こんな時でも汽車が走るのか、私は信じられない思いがしていた。けれども、坂町行109列車は入ってきた。いつもと同じ蒸気機関車が、動輪の間からホームに蒸気を吹きつけながら、何事もなかったかのように進入してきた。機関士も助士も、たしかに乗っていて、いつものように助役からタブレットの輪を受けとっていた。機関士たちは天皇の放送を聞かなかったのだろうか。あの放送は全国民が聞かねばならなかったはずだが、と私は思った。昭和20年8月15日正午という、予告された歴史的時刻を無視して、日本の汽車は時刻表通りに走っていたのである。(pp.248-250)
小牟田2021(pp.269-274)にこの部分について述べた「駅頭ラジオで聴いた玉音放送」という一節がある。この節は上の箇所の引用を含むが、それに加えて、その後の部分を引用している。「山々と樹々の優しさはどうだろう。重なり合い茂り合って、懸命に走る汽車を包んでいる。日本の国土があり、山があり、樹が茂り、川は流れ、そして父と私が乗った汽車は、まちがいなく走っていた。」[宮脇2023, p.250]。美しい描写である。国が破れたあとの風景。小牟田2021が言うように、杜甫の「春望」(国破れて山河あり、城春にして草木深し…)を思わせる。宮脇自身も別の箇所でこの漢詩の言葉が頭に去来した、とのことである。この漢詩について、吉川幸次郎の「新唐詩選」によれば、これは杜甫46歳、安禄山の乱で捕われ反乱軍の陣営に拘禁されていた時の作とのこと。「烽火三月に連なり、家書万金に抵る」と戦乱は春3月になってもまだ止まず、家族との連絡も絶えている[資料1, pp.19-20]。国は敗れたが自然がある、と感傷に浸る詩ではないようである。8月15日の敗戦を境として日本は変わったということはなく、戦中戦後の混乱とが連続して人々の生活を脅かしていた。20代前半の私の両親もそのような現場にいたことが思われる。
主題から若干それるが、兵役と戦死について。宮脇さんは1926年生まれ、この時東大の学生である。理系だったので学徒動員にも含まれなかったのだろうか。中学から旧制高校へ帝大へと進み、終戦日1945年8月15日を迎えている。一方、学徒動員で軍務についていた東北大生の見習士官平井聖さんは1945年7月10日の仙台空襲で兵舎にて空爆の犠牲になっている[資料2, 3]。この方は1924年生まれ、その時21歳。ちなみに「戦没農民兵士の手紙」[資料4]の書き手はほぼ兵卒であるのに対して「きけわだつみのこえ―日本戦没学生の手記」[資料3]の戦没学生のほとんどは士官である。兵卒であれ士官であれ、若い多くの人材を失ったことは間違いない。戦争がなければ、この方々にもこのあと50-60年以上の人生があったものを。
[資料]
[1] 吉川幸次郎:新唐詩選, 岩波新書, 1965
[2] 河北新報2023.10.21付「河北春秋」欄, 2023
[3] きけわだつみのこえ―日本戦没学生の手記, 岩波文庫, 1995, pp.184-186
[4] 岩手県農村文化懇談会: 戦没農民兵士の手紙, 岩波新書, 1961
2023/11