宮沢賢治とファン・ゴッホ

宮沢賢治(1896-1933)とファン・ゴッホ(Vincent van Gogh, 1853-1890)。日本の詩人作家とヨーロッパの画家。この二人に個人的な接点はないし、なした仕事の共通点もない。唯一の共通点は、両者とも30代後半で無名のまま短い人生を終えていることである。そして今日、日本では宮沢賢治とゴッホを知らない人はいないであろう。この二人の天才が世に知られるのは、その才能に依るのだけれども、私は賢治の弟清六[資料1]、ゴッホの弟テオの兄弟愛と作品を世に出す活動があって、両者が世に知られるに至ったと思っていた。実際、そうなのだが、その他にも彼らの遺したものを大切に保存する営々たる努力をした人たちがいた。次のような著書が出ている。賢治の父親[資料3]およびゴッホの義妹ヨー・ファン・ゴッホ=ボンゲル[資料4, 5]についてである。

  1. 宮沢清六著「兄のトランク」筑摩書房、1987
  2. J. v. ゴッホ-ボンゲル編「ゴッホの手紙(中・下)=テオドル宛」岩波文庫、1961, 1970
  3. 門井慶喜著「銀河鉄道の父」講談社(2017)
  4. ヨー・ファン・ゴッホ=ボンゲル著、吉川真理子訳「フィンセント・ファン・ゴッホの思い出」東京書籍(2020)
  5. ハンス・ライテン著、川副智子訳「ヨー・ファン・ゴッホ=ボンゲル 画家ゴッホを世界に広めた女性」NHK出版(2025)

宮沢賢治が生前に出版できた作品は2冊である。「春と修羅(詩集)(1924)」と「注文の多い料理店(1924)」。前者は自費出版、後者は賢治とゆかりの深い光原社[注1]が出版しているが、あまり売れなかったという。生前全く無名、日本文学の伝統的流れとは隔絶したところで創作活動を行った賢治[注2]。彼自身は自分を教師・農民と自覚していただろうが、詩人や文学者とは思っていなかっただろう。今日、私たちの前には「校本『宮沢賢治全集』(筑摩書房版・全14巻):約7,000ページ超」がある。わずか37年の生涯。これを支え、賢治の没後、その活動を世に知らしめようとしたのは、彼の父政次郎(1867-1951)と弟清六(1904-1988)である。政次郎は賢治の遺稿や蔵書を守り、清六とともに作品の出版や保存に尽力した。この父と弟は、宮沢賢治の作品を後世に残すという重要な役割を果たした人たちである。特に清六の活躍がなければ、賢治の評価はこのようには広がらなかったと言われる。1982年に花巻市に宮沢賢治記念館が設立されている。

[資料2]が「J. v. ゴッホ-ボンゲル編」となっていることに気づいたのは最近である。この人が資料[4]と[5]にあるヨー・ファン・ゴッホ=ボンゲル(Jo van Gogh-Bonger, 1862-1925)、テオ・ゴッホ(Theo van Gogh, 1857-1891)の妻である。テオはフランスで画商をしていた。ゴッホを精神的に支え、生涯にわたって金銭援助を続け、兄の創作活動を支えた。二人の間には800通以上の手紙が残っており、その多くがヴィンセントの内面や創作への思考を記録する重要な資料となっている。これが資料[2]となって残っている。テオは残念ながらゴッホの死後1年もせずに亡くなる。テオの死後、ヴィンセントとテオの手紙・作品の保全と普及に人生を捧げたのが、その妻ヨー・ファン・ゴッホ=ボンゲルである。ゴッホは、10年という短い活動期間に2,000点以上の作品を残している。その作品が市場に評価されていなかった時代に、展示活動や翻訳出版を進め、ヴィンセントとテオの間の手紙をまとめて「ゴッホの手紙」を出版。ヨーの努力によって、ゴッホの評価は死後10-20年で急速に高まることとなった。1925年に彼女は亡くなり、息子(ゴッホの甥)Vincent Willem van Gogh (1890-1978)がその志を継いで、1973年アムステルダムのゴッホ美術館の設立に至っている。生前売れた絵が1枚[注3]のみの無名の画家ゴッホは、今や世界で最も有名な画家ではないだろうか。弟夫婦テオとヨーは、いずれゴッホが評価される時が来ると固く信じていた。

賢治の父と弟、そしてゴッホの弟夫婦。賢治やゴッホが天才なのでその名を世に知らしめようとしたわけではない。家族にとって自分の親族である者が何者なのか困惑しながらも家族愛がそれを超えて、その死後も残された膨大な作品群を守り、営々たる支援の努力を重ねた。賢治とゴッホの遺したものが、後世に伝えるべきものだと思わせる強い衝撃を家族に与え続けたに違いない。家族のこのような活動なしに、今日われわれが宮沢賢治とゴッホを知ることはなかったと言ってもいい。

賢治の「銀河鉄道の夜」は彼が亡くなった翌年1934年に初版が出て、現在まで続いており、そのストーリーは童話だけではなく今もさまざまなジャンルで展開されている。ゴッホの最高傑作と言われる「星月夜」と「ひまわり」は、亡くなる直前の1889年に描かれている[参考1 , 2]。彼らはこれらの作品をこの世に残し、見返りを受け取ることなく、ただちに世を去っている。

[注1]
同社本店は現在も盛岡市に存在する。仙台にも仙台光原社があり、民芸品などを扱っている。仙台光原社のウェブサイトに「宮沢賢治と光原社」という記事がある。
[注2]
「一ヶ月に三千枚も書いたときには、原稿用紙から字が飛び出して、そこらあたりを飛びまわったもんだと話したことがある程だから、七ヶ月もそんなことをしている中には、原稿も随分増えたに相違ない。…」(宮沢清六1987, p.89)
[注3]
売れたこの1枚は「赤い葡萄畑」である。その経緯を含めて詳細はWikipediaにある。
[参考]
1. ニューヨーク近代美術館所蔵。(ジャン=ピエール・ルミネ著、小金輝彦訳「ゴッホが見た星月夜」日経ナショナル・ジオグラフィック、2024)
2. 「ゴッホのひまわりはどこにある?7枚の作品と美術館を紹介」(「ゴッホのひまわりはどこにある?7枚の作品と美術館を紹介」)
[付記1]
宮沢賢治は短歌も数多く詠っている(「宮沢賢治歌集」未知谷、2005)。1933年9月の亡くなる前日に詠まれ、病床でノートに遺された絶筆2首が有名である。
〈方十里稗貫ひえぬきのみかも稲熟れてみ祭三日そらはれわたる〉
いたつきのゆえにもくちんいのちなりみのりに棄てばうれしからまし〉
[付記2]
「星月夜」と「ひまわり」は彼の死の前年にあたる1889年にサン=レミの精神病院に入院中、あるいはその後に描かれたと言われる。前者はニューヨーク近代美術館、後者はロンドンのナショナル・ギャラリー所蔵の「ひまわり」を指す。ゴッホは「ひまわり」を7点描いているが、そのすべてが亡くなる直前の2年間に仕上げたものである。

2025/09

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