・森鴎外:大塩平八郎 他三篇, 岩波文庫, 2022
鴎外の上記作品が新たに岩波文庫に入ったので、購入し読了した。内容は中編短編4作品である。「護持院原の敵討」,「大塩平八郎」,「堺事件」,「安井夫人」。鴎外の歴史物なので、史料を駆使して事実に近くかつ読者を引き込むような書きぶりは相変わらずである。その中の「安井夫人」に注目した。これは江戸後期の儒学者安井息軒 (1799-1876) とその妻川添佐代 (1812-1862) の物語である。話は淡々と進み、お佐代さんが亡くなる場面に至る。
(以下引用は、青空文庫 より。安井息軒の字は仲平、号が息軒。)
お佐代さんは四十五のときにやや重い病気をして直ったが、五十の歳暮からまた床について、五十一になった年の正月四日に亡くなった。夫仲平が六十四になった年である。(岩波文庫版, p.219)
最初からここまで事実関係を中心に物語は進む。ところが次の段落に入って、急に文の調子が変わる。お佐代さんに関する文章が続き、そして「わたくし」という形で語り手が唐突に姿を現わす。ここへきて鴎外がお佐代さんについての長文の私見を披瀝している。美しい印象的な一節となっている。
お佐代さんはどういう女であったか。美しい肌に粗服をまとって、質素な仲平に仕えつつ一生を終った。飫肥吾田村字星倉から二里ばかりの小布瀬に、同宗の安井林平という人があって、その妻のお品さんが、お佐代さんの記念だと言って、木綿縞の袷を一枚持っている。おそらくはお佐代さんはめったに絹物などは着なかったのだろう。
お佐代さんは夫に仕えて労苦を辞せなかった。そしてその報酬には何物をも要求しなかった。ただに服飾の粗に甘んじたばかりではない。立派な第宅におりたいとも言わず、結構な調度を使いたいとも言わず、うまい物を食べたがりも、面白い物を見たがりもしなかった。
お佐代さんが奢侈解せぬほどおろかであったとは、誰も信ずることが出来ない。また物質的にも、精神的にも、何物をも希求せぬほど恬澹であったとは、誰も信ずることが出来ない。お佐代さんにはたしかに尋常でない望みがあって、その望みの前には一切の物が塵芥のごとく卑しくなっていたのであろう。
お佐代さんは何を望んだか。世間の賢い人は夫の栄達を望んだのだと言ってしまうだろう。これを書くわたくしもそれを否定することは出来ない。しかしもし商人が資本をおろし財利を謀るように、お佐代さんが労苦と忍耐とを夫に提供して、まだ報酬を得ぬうちに亡くなったのだと言うなら、わたくしは不敏にしてそれに同意することが出来ない。
お佐代さんは必ずや未来に何物をか望んでいただろう。そして瞑目するまで、美しい目の視線は遠い、遠い所に注がれていて、あるいは自分の死を不幸だと感ずる余裕をも有せなかったのではあるまいか。その望みの対象をば、あるいは何物ともしかと弁識していなかったのではあるまいか。(岩波文庫版, pp.219-220)
岩波文庫の解説者は〈鴎外は、佐代さんの結婚後の生活も、遠くを見すえた自律的な選択であり、意志の強い「新しき女」とみるのであろう〉と言っていて、なんだかよく分からない解釈である。解説者は、さらに明治末年から始まる女性解放運動との関わりがあるという。その辺が鴎外研究界隈での常識なのだろうか。
鴎外がどうしてここで急に「わたくしは」と言い出すのだろう、と私は思う。「意志の強い新しき女」については、鴎外はもうたくさんのはずである。母ミネ、妻シゲ、いずれも意思の強い女性ではなかったか。これは、長男森於菟、次女小堀杏奴も語っているところである。本編は鴎外52歳の時。彼の理想の女性像をお佐代さんにかぶせている、あるいは遠い思い出の中のエリーゼを語っている、と考えることもできる。佐代さんは鴎外の生年にはすでに亡くなっている。エリーゼとは連絡はとれていたとしても、彼女が22歳の時に別れたままである。共に人生を歩むことができなかった女性について、鴎外の郷愁が文字化されたものではないかと思う。鴎外がこの作品を書いたのは1914年。ベルリンの日々から四半世紀も経っている。私の推測は、この佐代さんの描写は、長い間のうちに浄化され理想化されたエリーゼのことである、彼女の人格の思い出がこのような形で死ぬまで鴎外の心に残っていた、というものである。
鴎外とエリーゼについて、研究者や鴎外作品愛好者の活動とそれの結果としての膨大な資料残っている[Website 1, など]。これに対して、六草2011, 2013は、ベルリン市の行政書類や教会の保存文書などをもとにエリーゼが何者かを特定しており、これによってそれまでの間接データによる推論の努力がご破産になったと言えるのではないか。娼婦説、人妻説、ユダヤ人説などなどあったが、ドイツでの実質的な証拠が出てきてみると、このような「説」は虚しいものである。鴎外の文学活動の動機について、生涯を通じて不成功裡に終わる女性関係[Website 4, 注1]や医学者としての力量不足[Website 2]、強すぎる母親に物を言えない息子[Website 3, 注1]として、大きな鬱屈を抱えながらその反動としての文学創造に向かったのではないだろうかと考察することもできるようだ。こんなことを考えていると、彼の臨終間際の「馬鹿らしい」発言の「真意」もなんとなく理解できるのではないだろうか[山崎2012, p.315; Website 5]。また、岩波書店の鴎外全集の編纂などに力を尽くした木下杢太郎に「森鴎外」という一文がある。木下1932はその最終段で[注2]のような鴎外作品全般に対しての印象的な観察を述べている。鴎外の世界には何か全うできていない悲哀や苦痛が伴っているように感じていたところである。木下杢太郎の話にはなるほどと頷くところが大いにある。
[参考資料]
・六草いちか:それからのエリス いま明らかになる鴎外〈舞姫〉の面影, 講談社, 2013
・山崎光夫:明治二十年六月三日―鴎外「ベルリン写真」の謎を解く, 講談社, 2012
・六草いちか:鴎外の恋 舞姫エリスの真実, 講談社, 2011
・小堀杏奴:晩年の父, 岩波文庫, 1981
・森於菟:父親としての森鴎外, 筑摩書房(筑摩叢書159), 1969
・木下杢太郎:森鴎外, 昭和七年岩波講座「日本文学」, 1932(再録:森鴎外全集別巻, 筑摩書房, pp.3-28, 1971)
[Websites]
1. 森鴎外と舞姫事件研究(サイトアドレスが「安全ではない」と出る)
2. 鴎外への鎮魂歌0(その概略)
3. 鴎外への鎮魂歌5(母との関係)
4. 鴎外への鎮魂歌7(結婚)
5. 門賀美央子:文豪の死に様「森鴎外―死の床で〈馬鹿らしい〉と叫んだ人」 (伊藤久子:感激に満ちた二週日 文豪森鴎外先生の臨終に侍するの記, 「家庭雑誌」第8巻11号 より)
[注1]
[小堀1981, pp.202-203]
父は何故、死ぬほど好きであった独逸生まれの恋人を、祖母の反対のためとはいえ、断念しなければならなかったのであろうか?それだけならまだよい。日本に帰るとまた、その祖母の勧めるまま、赤松氏の女、登志子さんを迎え、ドイツ生まれの恋人をも、登志子さんをも、同じように不幸にしている。
それだけではない。何年かの歳月が過ぎたとはいえ、またしても、自分の意志によるものではなく、これも祖母に進められるまま、私の生母、しげと結婚し、しげをも不幸にしている。
親といえど人間である以上、思い違いや、誤りを犯すことはあるのだから、何故時には、親にさからうまでに至らなくても、説得して、自分の意志を通すくらいの、男らしさを持たなかったのであろうか?
[注2]
[木下1932, pp.27-28]
われわれから見ると、鴎外は休息無き一生涯の間にあれだけの為事をした。自分でも満足としたであらうと思ふ。それにも拘らずその随筆、創作の到る処に、悲哀に似る一種の気分を感ずるのは何の故であるか。加之(しかのみならず)或は既に引く所の霞亭傅の冒頭の章に於て、或は「あそび」に於て、「なかじきり」に於て、しばしばこの歌声をあらはにしてゐるのは何の故であるか。余は岩波書店の需に応じてこの記を作るに当たり、再び鴎外全集十八巻を読んだが、読み了つて心中に寂寥の情緒の湧起するのを防ぐ能はなかったのは、独り余の漸く老いて、生来怯弱の心のレストロスペクチイフの観照によって一層傷けられたのに因るのであるか。
2025/03