ロシアと日本

吉村昭:ニコライ遭難、岩波書店、358p、1993(新潮文庫、1996)
吉村昭:海の史劇、新潮社、672p、1972(新潮文庫、1981)
吉村昭:ポーツマスの旗、新潮社、372p、1979(新潮文庫、1983)

上掲の作品3点を読んだ。吉村昭は、はるか昔「戦艦武蔵」と「零式戦闘機」を読んで以来かもしれない。こういう小説をなんといえばいいのだろう。記録文学という人がいる。劇的な効果をねらっての盛り上がり的な記述は一切ない。淡々と事実関係を積み上げている。作者は徹底的に資料を参照し関係者にあたり、詳細な記録のみをもって主題を展開していく。読み進むにつれて作品全体に潜む作者の問題意識がなんとも言えない緊迫感を醸し出し、読者を最後まで連れて行く。

本文の表題は「ロシアと日本」であるが、舞台はロシア帝国と開国まもない明治の日本である。日本史で学ぶ大津事件(1891)、日露戦争の日本海海戦(1905)、ポーツマス講和条約(1905)をテーマにしている。作者の関心は近代国家になろうとする日本の司法の独立(ニコライ遭難)、ロシア側から見た日本海海戦(海の史劇)、ロシアと日本の力関係の中での日露戦争の講和のプロセス(ポーツマスの旗)である。主人公は、それぞれ暗殺未遂犯津田三蔵、バルチック艦隊司令官ロジェストヴェンスキー、外務大臣小村寿太郎である。彼らの死に至る事情を記して物語を終えている。

「ニコライ遭難」: 大津事件[Website 1]は、1981年5月、日本を訪問中のロシア帝国皇太子ニコライが警備の警察官津田三蔵に切りつけられ、負傷した暗殺未遂事件である。大国ロシアに気を使う新興国日本の政府側は、犯人を死刑にしようとする。その法的な根拠を当時の刑法116条(天皇・三后・皇太子に対し危害を加え、または加えんとしたる者は死刑に処す)に求めた。これに対して大審院長(現在の最高裁判所長官)児島惟謙を中心とする法曹界は、この条項の海外の王族への適応という拡大解釈に反対し、津田は終身刑となった。国立公文書館アジア歴史資料センター[Website 2]の記事の中に次のような一文がある:「津田に対する量刑を確定する過程は、当時の日本において、政府からの司法権の独立の確立に大きく寄与し、その意味で大津事件にまた新たな意義を付け加えることとなりました。」一方、収監された津田はその2ヶ月後に死亡した。その経緯を作者は16章全体を使って述べている。伊賀上野の大超寺に津田家の墓があり、三蔵の墓はとても小さな墓石として残っているとのこと。次の最終17章は、津田を捕らえた人力車車夫の向畑と北賀市が政府から叙勲され年金を受給、かつ皇太子ニコライからも報奨金と終身年金を授与されながら、彼らの人生が悲惨なものに終わったことを詳述している。思いがけない突然の大金の取得はひとを不幸にする、ということなのだろう。また、来日3年後にニコライはロシア皇帝ニコライ2世となるが、即位まもなく帝国は騒乱から革命へと続き、1918年に命を落とすことになる、と結んでいる。死亡年齢50歳。

「海の史劇」:ロシア側の資料、ということが気になった。参考文献に①「千九百四、五年露日海戦史第一巻〜七巻(第五巻欠)露国海軍軍令部編纂」②「露艦隊来航秘録(リシア海軍造船大技士ポリトウスキー著)」③「露艦隊幕僚戦記(著者不明)」④「露艦隊最後実記(著者公表セズ)」とある。ネット検索で調べると、①について、「千九百四五年露日海戦史、第1巻 上、ロシア海軍省編著、海軍軍令部出版、1915年7月」というものがある[昭和館デジタルアーカイブ, Website3]。ということは、ロシア海軍が作成し、日本海軍が訳したものらしい。②〜④については、「露艦隊来航秘録・露艦隊幕僚戦記・露艦隊最期実記、ポリトウスキー他著、時事新報社訳、海軍勲功表彰会本部出版、1907年11月」とある[昭和館デジタルアーカイブ, Website4]。ロシア側の資料を1907年という早い時期にすでに日本海軍が日本語に訳していたということらしい。吉村はこれらの資料を使ったということであろう。バルチック艦隊の七ヶ月におよぶ航海に1〜7章248ページを費やしている。日本海海戦の実戦は、11〜15章172ページである。いずれも著者自身が現場を見て記録したような詳細な記述である。あとがきに「その海戦は凄惨であったが、戦闘方法をはじめ被害艦の乗組員救出とその収容方法等に一種の人間的な秩序がみられる」との追記がある。敗将ロジェストヴェンスキーは佐世保の海軍病院で傷の手当をしてロシアに戻ったが、海戦からわずか3年後、頭部の傷がもとで世を去った。旅順要塞陥落の責任はロシア陸軍中将ステッセルにあるが、彼もシベリア追放となり悲惨な運命をたどることになる。

「ポーツマスの旗」:ポーツマス条約は日露戦争の講和条約として1905年9月に締結された。旅順攻囲戦、日本海海戦を経て日本の勝利となったのだが、開国後30数年の新興国日本に対して、大国ロシアは戦争続行可能との圧力の下、講和会議に臨んでいた。日本政府は戦争には勝ったものの自国の経済的、軍事的限界を認識していた。ロシアの国力を恐れるという自己認識を政治家、軍部、外交官が一致して持っていたことが印象深い。この状況の中で日露戦争を勝利のうちに講和条約に持ち込まなければならない、この国家的悲願のために仕事に励んだ外相小村寿太郎の物語である。小村は粘り強く交渉を行い、樺太南部を領土として得、朝鮮満州への支配権を獲得した。しかし戦争に勝利しながら、賠償金を取ることができなかったことから国民の怒りを買い、各地での暴動や講和反対運動が起こった。国内での屈辱条約への不満は持続し、かたや帝国主義の原理で動く当時の情勢に対応しつつ、小村は次第に体力を失っていく。最終11章では、小村は衰えゆく体力と講和後も落ち着かない国際情勢の中で、満州韓国問題をロシアの動向に気を使いながら講和条約の履行に努める。1911年11月病没。享年56。外務省葬にて弔われるが、東京市内に弔旗を掲げる家はなかったと伝えられる。小村がその生涯をかけた外交事業については外務省が「小村外交史」(上下巻)[Website 5]を編纂しており、その内容は今日でもPDFで閲覧可能である。あの明治の時代環境の中で外交官人生を送った小村は外務省の誇りであろう。そのような私見は一切述べていない吉村昭なのであるが、本作品全体から小村の人生への感動が伝わってくる。

[Websies]
(1) https://ja.wikipedia.org/wiki/大津事件
(2) 国立公文書館アジア歴史資料センター 大津事件 ~ロシア皇太子遭難をめぐって~
(3) 昭和館デジタルアーカイブ 千九百四五年露日海戦史
(4) 昭和館デジタルアーカイブ 露艦隊来航秘録・露艦隊幕僚戦記・露艦隊最期実記
(5) 外務省:小村外交史

2024/09

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