鴎外の遺言

余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ一切秘密無ク交際シタル友ハ賀古鶴所君ナリ
ココニ死二臨ンデ賀古君ノ一筆ヲ煩ハス
死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ
奈何ナル官憲威力ト雖此ニ反抗スル事ラ得スト信ス
余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス
宮内省陸軍皆縁故アノレドモ生死ノ別ルル瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス
森林太郎トシテ死セントス
墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可カラス
書ハ中村不折ニ依託シ宮内省陸軍ノ栄典ハ絶対ニ取リ止メヲ請フ
手続ハソレゾレアルベシ
コレ唯一ノ友人ニ云ヒ残スモノニシテ何人ノ容喙ヲモ許サス
大正十一年七月六日 
森林太郎言

賀古鶴所書 

[森鴎外の遺言, Website 1]

上掲は鴎外の遺書、没年1922年のものである。「死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ奈何ナル官憲威力ト雖此ニ反抗スル事ラ得スト信ス」と言っているが、これは誰でも死に臨んで思うことではないだろうか。現代に生きる私は当たり前のことを書いていると思った。しかしながら、この遺書について、次のようなことを言っている人たちがいる。

この遺書には、何か激しい怒りのような感情が流れている。世界、社会への静かな別れの挨拶ではない。一体これはなんだろうか[小塩2020、p.115]。

そしてこの「怒り」の原因としていくつか世俗的な件をあげて、次のように結んでいる。

普通一般の日本人であれば、死に臨んで、己と全自然、全世界との融合融和を念じ、そこに密かな悲哀を覚えつつ満足するだろう。死に臨んで全世界に対して怒る人はまずいない。これほどの大きな弧を描いて生を全うした人間が憤怒の情をもって己が死を迎えるとはどうしてか。[小塩2020、p.116]

また、朝日新聞デジタル2023には、鴎外の遺書について、次のような記述がある。

鴎外は陸軍の軍医総監など高いキャリアを積んだが、出世の陰には様々な犠牲があり、組織に対する怒りがあったのではないかと倉本さん(森鷗外記念会倉本幸弘事務局長)は言い、鷗外の抑えきれない国家に対する鬱屈とした思いが表れているとみる。組織に対する思いは現代人に通じる感情ともいえ、今でも様々な人の胸を打つ遺言書だ、と話す。[Website 2]

小塩2020、朝日2023のいずれも私には大きな違和感がある。文豪森鴎外の遺書だからこのように解釈したくなるのか。あるいは明治の人だからこのようなことを言うのは例外的なのか。このようなはっきりした遺書を書くことは、当時はあまりなかったのだろうか。特に国家の上層部にいた人がこのようなことを言うのは稀だったのかも知れない。「普通一般の日本人であれば死に臨んで…密かな悲哀を覚えつつ満足するだろう」とか「鷗外の抑えきれない国家に対する鬱屈」などの凡庸な結論は場違いではないだろうか。ちなみに、首相原敬(1856-1921)は自分への爵位授与を断り、遺書[Website 4]を残し、形式的なタイトルをことごとく却下している。原敬の暗殺は1921年、鴎外の死はその翌年である。同時代のエリートたちが世俗的な地位にこだわり、爵位をのぞみ、今日まで大きな墓を残している中での森鴎外、原敬。彼らの培った価値観、人生観がこのような遺書に現れていると思いたい。

鴎外は1916年軍医のトップを8年勤めて陸軍省を退役ののち予備役。続いて1918年から帝室博物館総長、帝国美術院初代院長などを歴任している。世間的には大成功の人生だろう。まもなく病気が悪化して、死の三日前の遺言に至る。死に臨んで思ったことは虚無の中に消え入るのみであるが、私には鴎外が死の床で世俗的な栄誉を反芻したとは思えない。危篤になる直前に「馬鹿らしい!馬鹿らしい!」と言ったという[Website 3]。そもそも鴎外自身が人生を全うしたと思っていたのかどうか。誰にとっても生きることそれ自体に悔いは残る。心根のやさしい鴎外は、たぶんエリーゼのことをそのときまで思っただろうし、独身の13年間に再渡欧しなかったおのれの優柔不断を悔いただろう。親の言いなりの最初の結婚と長男於菟の不憫について自分を責めただろうし、母みねと妻しげの長期の葛藤に疲労しただろう。自分が背負わなければならなかった森家の「再興」という運命を憎んだかも知れない。社会や国家などは、もうどうでもよかったのではないか。「人間、好きなように生きなければ、幸せには死ねないものだ[門賀2019, Website 3]」ということだろう。一人の男として鴎外は「エリーゼも、長男於菟の母も、次女杏奴の母をも、裏切ってきた」という観念から逃れられなかったのかも知れない。

鴎外の作品をずいぶん読んだが、あふれる文才の裏に隠している悔いが思われる。私は作品を読んだだけでは分からなかったのだが、六草2011, 2013を読んでのち、彼のベルリンでの若き日々の恋が彼の文学に深く影を落としていると思うに至った。「舞姫」を含めて鴎外はエリーゼのことをあらわには書いていない。40代の詩「扣鈕(ぼたん)」[森於菟1969, p.84; 六草2013, pp.112-113]がそのかすかな例外かもしれない。鴎外は最晩年まで彼女からの手紙など関連資料を手元におき、死ぬ直前にそれを焼却している(小堀1981、p.195)。

近代日本文学の二大巨匠、鴎外と漱石。漱石の「三四郎」の美穪子や「門」の御米ら、漱石の小説に現れる女性描写には私はあまり感じるところがない、というか登場人物の一人であって、その人が女性と設定されている。そして語り手が外部から物語を述べている、その状況の中での女性役である。一方、「舞姫」のエリスとの出会い、短編「普請中」の女性との会話など生々しい。一方、史料に基づいた話でも「安井夫人」の佐代、「渋江抽斎」の妻五百(いお)など、語り手の地位を踏み外すところがあり、鴎外は生身の女性への強い思い入れがあると思う。

以上、六草の著書を参考に想像めぐらしたことを書いた。その後、小堀1981に「黙して堪えた鴎外」という一節を見つけたので、その一部を引用しておく。鴎外を明治のエリート軍医そして文豪という外見にとらわれると、冒頭の遺言に対して小塩節2020のような凡庸な見方となるのではないだろうか。森於菟や小堀杏奴に、父親のこの遺言についての感想を聞いてみたいものである。

[小堀1981、pp.202-203]
「父は何故、死ぬほど好きであった独逸生まれの恋人を、祖母の反対のためとはいえ、断念しなければならなかったのであろうか?それだけならまだよい。日本に帰るとまた、その祖母の勧めるまま、赤松氏の女、登志子さんを迎え、ドイツ生まれの恋人をも、登志子さんをも、同じように不幸にしている。それだけではない。何年かの歳月が過ぎたとはいえ、またしても、自分の意志によるものではなく、これも祖母に進められるまま、私の生母、しげと結婚し、しげをも不幸にしている。」

[資料]
小塩節「随想 森鴎外」青娥書房、2020
六草いちか「それからのエリス いま明らかになる鴎外〈舞姫〉の面影」講談社、2013
六草いちか「鴎外の恋 舞姫エリスの真実」講談社、2011
小堀杏奴「晩年の父」岩波文庫、1981
森於菟「父親としての森鴎外」筑摩書房(筑摩叢書159)、1969
[Websites]
1.(例えば)森鴎外の遺言
2. 朝日新聞デジタル:森鷗外の遺書、7月から展示 にじむ怒りに〈胸打つ〉
3. 門賀美央子:文豪の死に様『森鴎外ー死の床で〈馬鹿らしい〉と叫んだ人』
4. 和田大諷:森鴎外と原敬に見る痛快な遺言

2023/12

上部へスクロール